ノーミソ刺激ノート

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「人間」の汚さについて

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子供も大人も「人間」

人間への嫌悪感を感じることはよくあることだと思いますが、一方で人間は人間に助けられるものです。

そもそも「人間」(にんげん)の語源は「人間」(じんかん)で、その意味は社会」を表します。

 

ですから完全に人間嫌悪の話をするわけではありません。

 

しかし子供をあまりに純粋無垢な存在と考えている人が散見するので、その事につ行け書きます。

かと言って子供が悪いというわけではありません。

あくまで、子供が素敵な存在で大人が汚い存在だという比較はおかしいと思っています。

子供のころ聞く言葉「無限の可能性」

小学生のころよく聞いた覚えがあります。
この言葉を簡単に使うやつは全員全く頭を使っていないパッパラパーです。

 

そんな言葉を子供に言ってるのは、言う本人(大人)が子供を美化して気持ちよくなってるだけ。

子供は決して奇麗な存在じゃないんです。

 

子供を天使のように奇麗な存在、理想視してるだけです。

 

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子供だろうが大人だろうが紛れもない人間そのものです。

大人か子供かの違いは社会に適応してるかどうかの違いで、汚いといえば汚いし、奇麗といえば奇麗な、ただただ人間でしかありません。


「無限の可能性」とはどういう意味か

それを子供に言って、その後の人生をどう歩むのが正しいのでしょうか。
小学生の私はこれを聞いてチンプンカンプンでした。
無限の可能性があると聞いた途端、自分の目の前に突如無限の道が現れたからです。
子供にとって、この「可能性」というものはおそらく「選択肢」のことでしょう。
教育というものは、矯正です。

 

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教師にとっては子供にあっちこっちに飛び回られては困るんです。
犯罪を犯されては困るから、社会人として最低限の社会規則を身に付けさせる。
死なないように、殺さないようにするのが教育です。


「無限の可能性」には死ぬ可能性、殺す可能性もあります。
しかしこのセリフを吐く人間はそんなこと考えていません。
この言葉の信者にそんなこと言ったら、「死なない、殺さないなんて当たり前じゃないか、それ以外の輝かしい未来を自分着切り開いてもらうためだ」と言うでしょう。私がこの言葉を素晴らしいと決め込んだらそう必ず言います。

 

現実逃避の言葉


何も考えていないからそんなことが言えるんです。まず教育に「当たり前」は通用しません。
子供の考え方には「無限の蓋然性」があるのです。オンリーワンが正しいのであれば、たくさん殺す新記録を出せばオンリーワンになれます。


「輝かしい未来」とは、なんて抽象的な言葉でしょう。
どんな未来が「輝かしい」のでしょうか。

抽象的な言葉を使う教師は教師じゃありません。場合によってはあるかもしれませんが、重要な場合においての抽象表現は禁句中の禁句でしょう。

 

具体的に示すことが教育です。社会的規範を示すのが教育です。
ですから今日の教育指導要領に掲げられている「考える力」なんてのは愚の骨頂。馬鹿が作ってるんですよ。



何のために公共機関が教育を掌(つかさど)ってるんですか?公共・社会の人になるためですよ。オンリーワンに国は必要ありません。
一対一の教育ではその人個人に対して愛情を注ぐ、つまりその人個人を見つめることは重要ですが、誤解を恐れずに言えば集団教育現場においては徹底的に個人主義を潰すべきです。

 

個人主義は集団の中にいる時に発動したら混乱します。

学校教育はその内、少数教育になると思いますが、集団教育もまた人としてじょお用でしょう。なぜなら人間は社会的な動物ですから協力は欠かせません。

その時に個人主義ではいけないでしょう。

そもそも政治側に考える力がないんです。

考える力はどうやって養われるかといえばアウトプットです。

 

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 詳しくはここにも書かれていますが書くことは本当に役立ちます。

 

気楽なブログの書き方 - ノーミソ刺激ノート

 

可能性は選択肢ではない


話を戻します。
はっきり言ってこのセリフを吐く人間は、自分には叶わなかった夢を、その「夢をかなえる可能性」のある人間に託しているだけです。

しかし努力していない人間に選択肢はありません。

 

だってほとんどの人が似たように大学卒業して就活して就職してるじゃないですか。考えてないからですよ。考えて個人で考えたら全員別の道に進むはずです。

じゃあなんで同じように、商品よろしく「生産」されるんでしょうか。


そう決めつけていいのかと思われそうですが、パッパラパーの考えは単純なので問題ないです。

個人の夢を他人に託す行動は即ち「自分至上主義」ですよ。自分でない他人を自分自身の人生に投影するのですから。


パッパラパーは自分から社会を見るので自分至上に走るのです。
なので人に自分のことを分かってもらう、「他人の理解」という次元にたどり着けなく、抽象的な言葉でもOKだと判断するのです。
自分がわかってればいいのだから。


まともな人間は社会から自分を見るので「他人の理解」を先に考える必要がある。
よって自分の言いたいことを人に伝えるには具体的な言葉を必要とする。

これに似たよく聞くもう一つの言葉に「自分の可能性を決めつけるな」というものもあります。
この場合の「可能性」というのは「選択肢」ではなく、「努力の量」のことだと思います。自分は馬鹿だからここまでしかできない。という諦めですね。


これは小学校教育よりももう少し発展した段階に言われることがありそうです。
社会人なんかありそうですよね。


社会人の場合な人生の選択肢が無限にあるわけないのでまあ「単純に考えるな」とも読み取れます。

技術の宣伝のために一見無意味なホンダのアシモや前田建設のマジンガーZ地下格納庫の概算工事費・概算工期の算出なんかは有名な例でしょう。


つまり、無限の可能性なんてものは基礎を完璧にした発展型の人間が考えるべきことであり基礎ができていない人間が語れるような簡単なものではないということです。

 

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